写真家・石野明子さんが光の島・スリランカで見つけた宝石のようにきらめく物語を、美しい写真と文章でつづる連載です。第8回は、スリランカ初の性的マイノリティーLGBTIQの人権保護を訴える非営利団体を立ち上げた女性のライフストーリーです。自分がレズビアンだと気づいた彼女は、一度はスリランカで自分らしく生きることを諦め、アメリカのサンフランシスコへ渡りました。ちょうどその頃のサンフランシスコでは、性的マイノリティーの人々による解放運動の熱気であふれていたそうです。そこで心動かされた彼女は、祖国へ戻り――。
「よく来てくれました」と出迎えてくれたのはロザンナ・フレーマー・カルデラさん(65歳)。モノトーンのシャツにデニムというシンプルな服装が長身のロザンナさんにとても似合っていた。青い瞳でまっすぐこちらを見つめる彼女のまなざしは強い。でも威圧感はなく温かいと感じた。
手土産にとクッキーの入った袋を渡すと「爆弾じゃないですよね?」と冗談を言いながら受け取ってくれた。どうしてそんな冗談を?と思いつつ、部屋を見渡すとロザンナさんのデスク横に壁かけられた液晶画面には敷地内に10個ほど設置された防犯カメラの映像が常に映し出されていた。ここは2004年にロザンナさんが立ち上げたスリランカ初の性的マイノリティーための非営利団体「EQUAL GROUND(イコール・グラウンド)」の事務所だ。
ロザンナさんが男性よりも女性をより魅力的に感じる、と気づいたのは多くの人が初恋を経験する10代のとき。しかしその気持ちを誰にも打ち明けることはなかった。当時1960年代のスリランカでは都市部のコロンボでも、ゲイやレズビアンという言葉は知られていたが、同性愛は犯罪とされ、自分がそうだとは恐怖のあまり心の中でも認めることはできなかった。
1975年、18歳になったロザンナさんは、従姉妹(いとこ)がいるアメリカ、サンフランシスコへ移り住んだ。スリランカでは自分らしく働ける場所を見つけることは難しく、さらに自分の内なる心を肯定する言葉を持てなかったからだ。アメリカでは60年代から同性愛者の解放運動が起こり、70年代のサンフランシスコはその活動の最先端を走っていた。アメリカ初、同性愛を公言しながら市議会議員に当選したハーヴェイ・ミルクの存在もあった。
ロザンナさんの従姉妹は、ロザンナさんの心に気づいていたのか、移住したばかりの彼女をレズビアンバーに連れ出した。「とても居心地がよかったですね。同性だろうと人を愛する気持ちは誰しも同じ、どんなセクシュアリティーもひとつの個性と捉えて、皆生き生きとしていました」
スリランカから遠く離れた場所で、ロザンナさんはやっと自分はレズビアンであり、かつ、自然体のままで尊重されるべき人権を持つ一人の人間だ、と肯定することができた。1978年には初めて多様なセクシュアリティーを象徴するレインボーフラッグ*を掲げたパレードを間近で見た。声をあげれば、何かが変わる――。ロザンナさんの心に勇気が芽生えた。
*レインボーフラッグ:1978年にアーティストのギルバート・ベイカーがハーヴェイ・ミルクから依頼されてデザインしたもので、性的マイノリティーの尊厳や権利を象徴する旗。
1990年、祖国と家族が恋しくなったロザンナさんは人権活動に関わりながら15年間過ごしたアメリカを離れスリランカへと帰国、ついに両親にカミングアウトすることができた。「そのままのあなたを愛しているよ、と私をぶ厚い愛情のクッションで包んでくれました。そのクッションのおかげで私はいつも前に進むことができています。でも誰しもがそのクッションを持っているわけではないですからね」
ロザンナさんの帰国時、スリランカの性的マイノリティーの人々を取り囲む環境は変わらず劣悪だった。警察による暴行、金銭の要求は日常茶飯事、家族から異性との結婚を強いられる、信じがたいが治療という名目で性行為の強要も。そして働き口もない。それというのも、130年以上前の植民地時代に、イギリスが制定した同性愛禁止法(正確には同性同士の性行為の禁止)によるところが大きい。それ以前のスリランカでは、同性愛の王も存在し、性のあり方はとても多様だったそうだ。
その、イギリスによって作られた法律は国会議員の投票でしか変えることができない。しかし、その問題を言い出せば、同性愛者だと揶揄(やゆ)されることが国会議員たちの足かせになっている。「なんだか多様性が後退してしまっていますよね」。この法を改正することが、ロザンナさんが「イコール・グラウンド」を立ち上げる大きな原動力となった。「私が子どもの頃感じた恐怖を味わって欲しくない。それにたった一度の人生なのに自分らしく生きられないなんてそんな悲しいことがありますか?」
団体の活動に対して否定的な価値観を持つ人々からの団体に対する嫌がらせ、誹謗(ひぼう)中傷は想像を絶する。「突然車から引きずり下ろされたこともあるし、事務所を荒らされたことも」。だから団体事務所の防犯カメラはあの数が必要なのだ。はっとクッキーの冗談を思い出した。まだまだ戦いは続いている。
「言葉でもモノでもいつ何が飛んでくるかわからないから、手にボクシングのグローブを常にはめている気持ちですよ。で、ときに強烈な言葉のパンチを繰り出す。おとなしくしてたら誰も気づいてくれません。このグローブで自分らしく生きたいと願う人たちが追い込まれているクローゼットを壊さないと」
ロザンナさんの言う「クローゼット」*とは「秘密を隠す場所」と言う暗喩で、本来の自分のセクシュアリティーを黙っている状態、打ち明けられずにいる人たちを取り巻く状況のことである。1950年ごろ、性的マイノリティーの人々から生まれた言葉だ。どんな個性を持っていようと隠された存在になることがないように、すべての人が自由に声をあげられる世界が訪れるように。「イコール・グラウンド(平等な大地)」という団体の名前にはそんな願いが込められている。
*『クローゼット』:「カミングアウトする」はCome out of closetが語源。
イコール・グラウンドでは、無料の心理カウンセリングや自立支援のための職業の斡旋(あっせん)、性的マイノリティーに対する理解のための資料配布などを行っている。各地で行っている人権の平等を訴えるワークショップでは、参加したくとも性的マイノリティーに関心があると知られると、参加者が差別されてしまう恐れがある。そのため貧困、宗教、職業カーストなど、スリランカに住む誰もが身近に感じたことのある差別を織り交ぜて、性的マイノリティーの情報に自然に触れられるよう工夫している。
スリランカの北西部のプッタラム(Puttalam)という漁業や塩田でその日暮らしをしている労働者が多い町で、そのワークショップを開いた時のこと。ロザンナさんはある一人の女性が気になった。こちらを見つめるも表情がなく、皆が拍手するときにも彼女は微動だにしない。ワークショップを終えたその日の夜11時ごろ、一本の電話が入った。その女性だった。
「私の息子はゲイです。私は息子とともに毒を飲んで心中しようとしていました。でもあなたの話を聞いて息子のことを理解することができました。打ち明けてくれた息子を誇りに思います。本当にありがとう」と。「間に合った、そう思いました。家族のつながりを重要視するスリランカでは、家族からの理解は、当事者にとってとても大きな助けとなりますから」
団体の立ち上げから17年、若い世代はロザンナさんの勇気を引き継ぎ、未来のためにできることを模索している。「年齢が高い世代でもカミングアウトする人が少しずつ出てきています。そしてセクシュアリティーの枠を超えて支持してくれる人たちが確実に増えました」と積み重ねてきた日々の結晶が大きくなっていることを教えてくれた。
「マイノリティーの存在を無視することでスリランカ政府は貴重な人材を追いやっています。自分の体の一部を削(そ)ぎ落としているのと同じですよ。それにマイノリティーを排除することは個性の多様性を失うこと。多様性を失えば、互いに監視し合うような息苦しい世界になりますよ」。苦難をともなう道なき道をロザンナさんは進み続ける。助けを求めている人たちのために。
虹色のボクシンググローブをはめたロザンナさんの後ろには、たくさんのレインボーフラッグがはためいている。