第11回 山の旅|清野栄一 ON THE ROAD|エッセイ・コラム|COLORFUL

 僕はこの連載と、今書いている小説のために、毎月のように福島へ帰省しては、何年間も放っておいた段ボール箱を、いくつも持ち帰ってきた。 段ボール箱を開けてみると、何年も前に雑誌に書いた原稿や、いつかどこかで書いたノートや、どこかの国のゲストハウスのレシートや、赤い表紙のトーマス・クックの時刻表や、撮ったことすら忘れていた写真や、大学生の頃に撮影した8ミリ映画のフィルムまでが、ぎっしり詰まっていた。 子供の頃にフィルムの入っていないカメラで眺めていた山を車で走りながら思い出した。そういえば、旅行どころか、住む家をなくしてみたりしたこともあったのだ。 東京に戻り、書斎に積みあがった段ボール箱を整理しながら、今さらのように思うことがある。自分が書いた文章を読み返したことも、昔撮った写真を眺めてみたことも、ほとんどなかった。 新しい原稿用紙に向かう前に、ふと手に取った一枚の写真を眺め、短い文章を読み返す。過去と未来や、写真と文章について考える。 そして僕は、またどこかへ出かけようとしている。

 木も生えない草原に、きらきらと光る氷の斜面が地面に浮いた島のように横たわっている。足元に低く差していたオレンジ色の朝日が消えると、しっとりと重たい冷気が首筋から胸元を伝って下着の中にまで入り込んできた。何年かぶりに登った月山の行者が原近くの登山道は、白地に黒々とした風紋を描いて固まった万年雪でさえぎられていた。 垂れ込めた霧の向こうで誰かが杖を突く音がする。歩き疲れた足をまた一歩不格好に前に進める。 ここで転べば万年雪の斜面のずっと下まで滑り落ちるだろう。子供の頃はもっと身軽に雪や氷の上を、真冬でも実家の近くの山の中で陽が暮れるまで遊びまわっていた。隣町にあった霊山は、登山道に沿って奇岩や断崖の絶景が続く山で、南北朝時代の前から、山岳信仰の一大拠点だったといわれている。今は山頂近くのすすきに埋もれた古い礎石や結界だけが残っている。 霧の中から乾いた鈴の音が聞こえてあたりを見回した。前にも後ろにも、ぼんやりとした霧の風景が続いている。今でもたまに、山の中で一人きりになると、山では死んだ人に会えるのだと言っていた祖父の話を思い出すことがある。 岩山を登るにつれて濃い霧は雨に変わった。山頂に着いた頃には暴風雨で、Tシャツ姿の登山客が震えながら山小屋に駆け込んで来た。すぐ横には城壁のような石垣に囲まれた月山神社の小さな社が建っているが、神仏分離の前までは阿弥陀如来が祀られていたらしい。 月山に羽黒山と湯殿山を加えた出羽三山は、東北の修験道の中心地だ。参拝者のほとんどは山伏でも修行者でもない登山客や観光客で、吉野の大峯山のような女人禁制でもないが、社務所が行う修行の他に、羽黒山修験本宗の秋の嶺入りや、大晦日まで続く百日修行などが今でも行われている。

 午前八時過ぎ、山頂で行者の出発を告げる法螺貝が鳴った。少しもおさまらない風と雨の中を、四十人ほどの白装束の一行が湯殿山のほうへ下りはじめる。修行者の中には女性も多く、若者も何人かいる。十年近く前に友人に連れられて大峯山に登った時にも、白装束を着た人たちの中には、海外旅行好きのバックパッカーや、全国各地の山の焼き印を押した杖を突いた若者たちがいた。 彼らがどうして修行に来たのか……ただ山に登りたいだけなのか、何かの鍛練のためか、それとももっと個人的な理由や宗教的な動機があるのかはわからない。でも、厳しい山駆けや滝行に、ただの旅行や遊びで参加する人は少ないだろう。他にいくらでもある旅先や登山や暇つぶしの中から、彼らは何日間か修験の山に登ることを選んだのだ。 六時間も歩いてガタつく膝と、強烈な虫刺されで腫れあがった腕で急斜面の鉄梯子にへばりついている私にしても、それは同じことだった。月山に登ったことは何度もあったが、湯殿山へ下りる急な岩場のルートを通るのははじめてだ。本格的な登山が趣味でもなく、信仰心があるわけでもないのにそんな山に登って面白いのかと尋ねられれば、これが結構面白いのだが、なぜかと聞かれるとよくわからなくなる。時間や移動とともに変化する景観や気候は見事だし、お湯が噴き出す湯殿山の岩は珍しいが、もっと絶景の山や海や砂漠は世界じゅうにいくらでもある。 山に行きたいと思ったのは、東京に住んで何年もたった二十代半ばの頃だった。私は今よりもしょっちゅう日本を抜け出してはあちこち旅行ばかりしていた。子供の頃からずっと、山の景色はいつもそのへんにあって、何か関心を持って眺めたり、歩いたりしてみたことはなかったのだ。ましてキャンプや山登りなんて、ボーイスカウトの時以来で考えもしなかった。だが、大峯山に登った時に、はじめて見る山に奇妙な懐かしさを感じて、霊山のことを思い出した。その夜に泊まった宿の女将は偶然にも、実家近くにある山の温泉生まれだった。 古来の街道や修験道について知った私が下北半島の恐山に行ったのは、霊山や寺山修司の映画のせいも少しはあったが、東北の北の端から南の端まで、山沿いに車で走ってみようと思ったからだ。真夏の恐山の賽の河原をくまなく歩き、岩手のストーンヘンジや山形の出羽三山を訪ねて、子供の頃に慣れ親しんだ霊山にたどり着いた。すべての建物が焼き払われ、何もないまでに破壊された奇岩と断崖の山だけが、ただ目の前にそびえていた。 またいろいろ旅するうちに何年かが過ぎて、日本で野外のパーティーがはじまると、私は毎月のようにどこかの山に出かけるようになった。日本のレイヴやロック・フェスの会場は、ほとんどが山の中だった。音にまみれて踊りながら、朝日に照らされ、霧や雨に煙る巨大な描き割りのような名も知らぬ山をいくつも眺めて、歩きまわった。音がある山は、それがない山よりも強烈に私にせまって来た。 鉄梯子を過ぎると湯殿山への道はきつい傾斜の岩場に入り、沢に並んだ石から石へと階段のように飛び下りる。八時間近く歩き続けた膝がガクガク笑い、目は足元に釘付けになって、炎天下に息があがる。次の石に足を運ぶのに精一杯で、頭の中がだんだんからっぽになり、自分がただ山を歩く生き物のようになっていく。 そのトランス状態が、暗がりから明るくなるまで続き、山の中の道を進むことや、時間の経過や移動とともに景色が移り変わったり、いくらハイになっても終わってしまえば疲れた肉体が残るところなどは、無理やりくらべればダンスのトランスに少し似ているかもしれない。どちらも自分の体を通した、物語的な体験だからだ。修験の本質がまったく違うのは説明するまでもない。湯殿山から自分の車に戻った私は、山並みが見渡せる駐車場に車を停めて夕方が来るのを待った。 大峰山に登った時に感じた奇妙な懐かしさは、郷愁や既視感というものとは少し違っていたような気がする。私がずっと気になっていたのは、どこかのナントカ山のことではなくて、自分の中に転がっている、今足元にある山だった。霊山でもエアーズロックでも見知らぬ山でも、私はそこに登り、自分の足で立つたびに、面白さやつまらなさを感じるのだろう。

(第11回・了)