第20回『このミステリーがすごい!』大賞・大賞受賞作。南原詠著の書籍『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』から厳選して全5回連載でお届けします。今回は第3回です。「特許侵害を警告された企業を守る」ことを専門とする“特許法律事務所”を立ち上げた凄腕の女性弁理士・大鳳未来。今回のクライアントは、映像技術の特許権侵害を警告され活動停止を迫られる人気VTuber・天ノ川トリィ。そして、さまざまな企業の思惑が――。真の目的を明らかにするため弁理士・大鳳未来が挑む! 現役弁理士が描く企業ミステリー小説。三重を離れ次のクライアントがいる東京へ向かう未来。VTuberが所属する会社エーテル・ライブは独特な雰囲気で…。
『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』(南原詠/宝島社)
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確かに、ソフトウェアの仕事がしたいと言ったが。
東海道・山陽新幹線『のぞみ』の中で、未来は姚から送付された資料一式を読み込んだ。
エーテル・ライブ・プロダクションは、五年前に設立されたバーチャル・ライバー─YouTube上での活動が主のため、VTuberの呼び名が一般的だが─の事務所だ。
もともとは別の名前で、ITサービス全般を手広く取り扱っていた会社だった。VTuber事務所の事業は、数あるサービスの中の一つだった。
しかし昨今の爆発的なVTuber人気により、売り上げのほとんどをVTuber事業が占めるようになった。
経営者側は、社名をエーテル・ライブに変更。事業内容も、VTuber事業に集中させた。
VTuber事務所として、エーテル・ライブは日本一の規模を誇る。国内外を合わせて、所属VTuberは六十七名。YouTubeと、中国の《Bilibili》まであわせると、チャンネル登録者数累計は二千万人を超える。
経営状況が、全く理解ができなかった。
VTuber事業って、どうやって売上を上げるのか。どこから金が入って来るのか。広告事業か。広告だったらVTuber事業なんて書かずに広告事業って書いて欲しい。
考えれば考えるほど、違和感の原因は、一つの疑問に集約される。
VTuberとは何か。
YouTuberならわかる。ペプシコーラの風呂に入ったり、渋谷駅のハチ公前交差点のど真ん中で、青信号の間に踊ったりする職業の人だ。
未来は、添付資料の中身を何度も確認した。
エーテル・ライブの企業情報がほとんどだ。VTuberについての説明資料はない。
ついでにだが、警告書の内容に関する資料もない。
情報漏洩でもしたら大変なので、警告書の中身や警告の対象となった製品についての情報をメールで送るわけがない。しかし「VTuberが警告を受けた」だけでは情報として少なすぎる。勝手ではあるが、もう少し事前情報が欲しかった。
VTuberについて、未来もネットで調べた。しかしきちんとした説明は見つからなかった。もしかしたら、VTuberに定義なんてないのかもしれない。
スマホを閉じた。依頼人に直接訊ねたほうが早い。
姚の提案通り、快速みえと新幹線を乗り継ぎ、東急東横線武蔵小杉駅に着いたのは、午後五時を回ったところだった。
武蔵小杉駅から徒歩十五分の場所に、エーテル・ライブの事務所兼スタジオがある。
初夏の空は、まだ夕暮れと呼べるほどに赤味がかっていない。
立ち並ぶタワーマンションを眺めながら、未来はスマホで地図を確認しながら歩いた。
手荷物は、パソコンの入ったショルダーバッグのみ。着替えの詰まった小型トランクを自宅に宅配便で送って正解だった。引き摺って歩くには面倒臭い。
未来は歩きながら毒づいた。
「姚の奴、絶対に仕事の依頼をわんこそばか何かと勘違いしている。日本文化を間違って理解している」
早めに帰宅するサラリーマンのお父さんがたを速足で追い抜き、未来はエーテル・ライブの事務所に急いだ。
目的の事務所は超高層タワーマンションの下層部、オフィスフロアに居を構えていた。そこは二階から四階までオフィスフロアになっている。案内板を読むと、エーテル・ライブは、四階の全フロアを借り切っていた。
一階のショッピングフロアの喧騒を抜け、オフィスフロアに入った。
二階、三階は、疎らに人がいた。エスカレーターで四階に入った途端、一切の物音が聞こえなくなった。
「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた札が貼ってあるだけで、受付もインターフォンも、なかった。
未来は気にせず扉の奥に進んだ。
VTuberの撮影スタジオがあるためか、防音が行き届いている。ひょっとしたら廊下の壁のすぐ裏で、演者たちが生放送の収録をしている可能性だってある。
奥に進みながら、未来は呟いた。
「最近は新しくオフィスを構える会社は、オフィス内の一室をYouTube撮影用のスタジオとして使う、って聞いたけど。エーテル・ライブは全室スタジオなのか」
廊下を曲がると扉が立ち並ぶ通路に出た。依然として、しんと静まり返っている。通路の壁には扉が並んでいる。天井には五メートル間隔で監視カメラが設置されている。扉の奥に何があるかは不明だ。
無意識のうちに、未来は廊下の壁を拳で小突いた。
「何も聴こえないし、何も見えない。稼働している会社には見えない。実は単なるペーパー・カンパニーだったりして。VTuberも実は全部人工知能で、そもそも会社に人なんて誰もいなかったり」
回答は頭上から聞こえた。
『演者に関する情報は、最重要機密です。VTuberは、決して自らの正体を表に現しません。秘密保持義務がある人間であっても、会わせるわけにはいきません』
音源は、監視カメラだった。スピーカーの機能が備わっている様子だった。
最初のコミュニケーションが館内放送経由なんてクライアントは、未来も初めてだった。こめかみが、ぴくりと動いた。
未来は一番近い監視カメラに近づいた。レンズを見上げる。
「ミスルトウ特許法律事務所の大鳳です。棚町隆司社長でしょうか。名刺は、どうやってお渡しすればよろしいですか」
監視カメラでは、相手─棚町本人の可能性が高い─の表情は全くわからない。
棚町は、はっきりとした声で答えた。
『名刺は結構です。大鳳先生の評判はこちらで調べましたので、存じております。しかし、ずいぶんと遅かったですね。ご連絡を差し上げてから、四時間三十二分です。本来なら、今頃は契約の話に入っている予定でしたが』
「申し訳ありません。なにせ四時間三十二分前まで、三重にいましたので」
未来の目の前、廊下の壁が輝き出した。
廊下の壁に画像が映し出される。廊下の足元、壁と床の角に、垂直投影型のプロジェクタが埋め込んであった。
赤毛のショートヘアの女性キャラクタが、バストアップで映っていた。フリル付きのブラウスを着ている。
目力のある、年上の先輩を想起させるキャラクタだ。
『今、第八スタジオで撮影しているVTuberはエーテル・ライブに所属するトップライバーの一人、ミレディ・スプリングフィールドです。ネット上では、ファミリーネームをもじって『春原ミレディ』とか『春原さん』とか呼ばれています』
未来はミレディを凝視した。
コンピュータ・グラフィックだが、手描きのアニメ絵にかなり近い。可愛い、と表現しても問題はない。
映像の全体を見た。
画面の右側三分の一を占めている、小さな字のコメントが、物凄いスピードで流れていく。速すぎて読めない。
画面左下には、『同接数六八五七四人』と表示されている。
音声は聞こえないが、売れ筋商品の紹介をしている様子だった。背後に大量のカップ麺の画像が映っている。
眺めていると、棚町が訊ねた。
『ひょっとして、VTuberにはあまり馴染みがありませんか』
未来は素直に答えた。
「専門ではありませんが問題はありません」
棚町は、少しだけ間を空けてから訊ねた。
『初音ミクはわかりますか。わかるとしたらどの程度ご存じですか』
未来は即答した。
「登録商標です」
スピーカーから、微かに溜息が聞こえた。
『初音ミクはボーカロイドの名称です。ボーカロイドとは、合成音声技術に関するソフトです。もっとも現在、初音ミクは独自の設定や性格を与えられ、製品名ではなくキャラクタとして一人歩きしていますが』
未来は思わず反論した。
「もうすでによくわからないので、わかる範囲でお答えします。『ボーカロイド』も登録商標です。一般名称ではありませんので、使用はご注意ください」
今度は溜息がはっきりと聞こえた。
『ではキズナアイ、はわかりますか』
記憶を全部ひっくり返したが、覚えはなかった。
「最近の登録商標を全て把握しているわけではありませんから」
『商標から離れてください』
棚町の声とともに、廊下を挟んだ反対側のスクリーンが明るくなった。
頭にハート形のリボンを結んだ少女のキャラクタが表示された。
どこかで見た覚えがあった。テレビのCMにも出ていたキャラクタだ。
『我々エーテル・ライブの所属ではありませんが、キズナアイは最初のバーチャルYouTuberと呼ばれています。バーチャルYouTuber、略してVTuberです。もっともキズナアイ自身は、自分をVTuberとは呼びませんが』
スクリーンの中では、キズナアイが怖そうなゲームをプレイしている。薄暗い洞窟で、物陰から突如現れたゾンビをピストルで撃っている。
音声は聞こえないが、キズナアイの表情はコロコロと変化している。
キズナアイのゲームプレイ動画を眺めていると、棚町の声が響いた。
『VTuberとは、YouTuberの一種です。しかし実在する人間ではありません。漫画やアニメのキャラクタのほうが近いです。アニメのキャラクタが、ストーリーの制約から解放されて自由に生きているようなものです』
「キャラクタは誰が動かすのですか。声優もいるのですか」
『裏で動かす人がいます。声優もいます。両者は同じ場合がほとんどですが、別々に用意する場合もあります。ただしこの事実は、キャラクタ性が薄くなるため公表しません』
未来は、移動中に思っていた疑問を率直にぶつけた。
「VTuberは、どうやって儲けているのですか?」
『基本はYouTubeからの収入です。一つは広告収入。一回の再生でいくらの収入です。二つ目はスーパーチャット。ライブにおける投げ銭の収入です。弊所の売上の特徴としては、投げ銭の割合が多い。あとはグッズ販売やテレビ番組の出演などで得る収入です』
投げ銭についても、未来はかろうじて知っている。YouTubeのライブ配信では、配信者にチップ替わりの電子送金ができる。
棚町が続ける。
『約三百万人のチャンネル登録者数がいるキズナアイであれば、動画再生数、チャンネル・メンバーシップの月額料金、テレビ番組の出演などで、年収は一億円を軽く超えます』
キズナアイのスクリーンから光が消えた。
『投げ銭といえば、ミレディは先月、五分間で約一〇九・八万円の投げ銭を稼ぎました。特許事務所の弁理士は、五分でいくら稼ぎますか』
未来の胸の中には、仮想的な器がある。ガラス細工の見事な器だ。特定の出来事に反応すると、器の中には、どす黒い液体がこぽこぽと溜まっていく。
今の棚町の台詞で、器は八割まで満たされた。
未来は適当に計算し、ぶっきらぼうに答えた。
「四一六六円くらいでしょうか」
二秒ほど間をおいて、棚町が冷徹に答えた。
『時給五万円ですか。米国の特許弁護士と同等ですね。ご存じですか。オックスフォード大と野村総合研究所の研究によれば、弁理士業が二十年以内にAIに代替される可能性は九二・一パーセントとか』
ガラスの器は完全に満たされたが、表面張力でなんとか溢れずに済んでいる。
「そろそろ本題に入っていただいても構いませんか。警告書が届いたんでしょう。早く拝見したいです。もし弊所がお気に召さなければ、他の事務所を当たってください」
監視カメラは、沈黙した。
何分くらい経ったか。三十秒程度だったか。静寂の後、棚町の声が再び響いた。
『申し訳ありません。我々としても、警告書は初めてです。混乱しています。勝率が高くてすぐに引き受けてくれる法律事務所を探したところ、貴所が見つかりました』
視界の端で、ミレディがカップ麺を前に笑顔を見せていた。
未来はレンズに向かって微笑んだ。
「せっかくですし、お互いにお顔を合わせてお話できれば。立ち話で済む内容とは思えません、というか立っているのは私だけな気がしますし」
棚町は、ツマミ一つ分だけボリュームを落としたような声で訊ねた。
『一つだけ確認させて下さい。ミスルトウは成功報酬以外受け取らない、とは本当ですか』
未来は呆れて答えた。
「弊所のサイトに書いてある通りです。成功報酬のみ。着手金不要。報酬は負けた場合に支払う賠償額の三十パーセント。訴訟はさせずに解決します。万が一、訴訟に持ち込まれた場合、第一審までは無料で代理します」
例えば、相手から一千万円の損害賠償請求をされた場合。相手を完全に追い払えれば、ミスルトウの報酬は三百万円となる。
棚町は即座に続けた。
『負けた場合、本当に代理人手数料はビタ一文払わなくていいんですね』
面倒だが契約に関する話なので、きちんと頷いた。
「珍しい話でしょうか。保険のセールスも御社のVTuberも同じ。売上があって初めて給料が賄えるわけですよね。我々の場合、売上ではなくどれくらい損失を食い止めたかですが」
棚町の質問は続いた。
『大鳳先生も姚先生も、元パテント・トロールとは本当ですか』
未来は静かに答えた。
<第4回に続く>