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JavaScriptの設定を「有効」にするには特集アーカイブ記事一覧船橋陽馬
2017/01/04(水) 11:33 配信
オリジナル山に雪が積もった2016年11月下旬、秋田県北秋田市の山中に、がっしりした男たちが入った。静かに斜面を駆け上がり、周囲を見回し、ツキノワグマの気配を探す──。晩秋の熊狩り「しのび猟」の始まりだ。同じ秋田県の十和田湖近くでは同年5月から6月にかけて、山林で熊が次々と人を襲い、4人の命を奪った。熊が人に危害を加える出来事が各地で目立っている。そうした中、東北の山が育んできた山の狩猟民「マタギ」たちは、どうしているのだろうか。崩れかけた熊と人間の共生。その流れの中で、何を思っているのだろうか。マタギの今を知るため、「しのび猟」の季節に秋田の山を訪れた。(Yahoo!ニュース編集部)
秋田県北秋田市の阿仁地区は、10年ほど前の市町村合併まで「阿仁町」だった。地区の人口は3千300人余り。広い地域に集落が点在し、それぞれの集落は深い山に囲まれている。例えると、東京・山手線の内側に550人しか住んでいない計算だ。
この阿仁地区こそが、マタギ発祥の地であるとされている。取材班はその中の「打当(うっとう)」集落を訪ねた。
出迎えてくれた鈴木英雄さん(63)は、マタギである。周囲の山を見渡しながら「ここから見える山は全部、熊が出ます。マタギの猟場です」と教えてくれた。
秋から春にかけての猟期になれば、鈴木さんは山に入る。「害獣駆除」でも山に行く。熊と共生してきた阿仁地区の人間だから、「熊を害獣と呼ぶのは好きではありません」と言う。それでも、山に入ると、ライフル銃を手に熊を追う。
鈴木さんは、9代目のマタギだ。先祖たちはこの山と里で、延々と、おそらくは江戸時代から熊を狩り、熊と共に生きてきた。マタギの歴史は長い。15歳で初めて熊狩りに参加した鈴木さん個人にも、積み重ねた長い時間がある。
熊と自然。その鈴木さんの物語を聞く前に、動画を見てほしい。鈴木さんらによる「しのび狩り」。音を立てず、言葉も交わさず、熊に忍び寄る。滅多に目にすることのないマタギの猟。それは常に自然への畏怖と共にある。
初めての熊狩りには、獲物を追い立てる「勢子」として加わったと鈴木さんは言う。祖父が率いるマタギの集団にあって、鈴木さんは中学校を卒業したばかりの15歳。学生服と学生帽で大声を張り上げながら熊を追い立てた。
初めて仕留めたのは27歳だった。何人ものマタギで熊を取り囲むように行う伝統の「巻き狩り」。この時も鈴木さんは勢子だったという。追い立てられた熊は、銃を構えて待ち伏せるマチパ(撃ち手)の方に向かわず、鈴木さんの脇を走り抜けようとした。
そこを撃った。仕留めたかどうか。本当に仕留めたか。
倒れた熊に近づくと、いきなり立ち上がり、襲い掛かってきた。その頭を鈴木さんは撃ち抜いた。
鈴木さんの祖父、辰五郎さんは阿仁では知らぬ人はいないマタギだった。72歳で引退するまでの31年間、打当集落でマタギの頭領「シカリ」を務めた。
あるとき、辰五郎さんは撃ち損じた熊に襲われる。すんでのところで身をかわした姿が、熊を投げ飛ばしたように見えたという。それで「空気投げの辰」の異名をもらった。
鈴木さんは、子どもの頃からその祖父に連れられて山に入り、長じてからは一緒に猟をした。学んだのは、狩りの技術だけではない。山への感謝、命への畏敬、仲間への信頼。マタギに必要な全ては「7代目」の祖父からだった。
マタギとは何か。そう鈴木さんに尋ねた。
「やるべきことをやっているだけで。農作業と同じように、秋になるとマタギが始まるんだな、と。1年の生活のサイクルに、マタギが入っているということですね。…山に入らなくっちゃいけない、っていう気持ちが沸き起こるのは…なんでだろう。自分でも分からない」
取材班が熊狩りに同行した際、猟場とは違う道を鈴木さんらは進んだ。行き先はマタギ神社。マタギたちが信仰する山の神は醜い女性とされ、嫉妬深いという。
熊や山菜、キノコなど山の恵みは全て、山の神の所有物とされる。機嫌が良いと授けてくれる。機嫌が悪ければ、不猟どころか危険な目にも遭う。そのため、山には多くの禁忌(タブー)が存在した。山での会話はマタギ独特の山言葉を使わなければならなかったし、そうした掟を破ると、水垢離までして身を浄めたとされている。
今でも山では、妻や恋人の話はご法度だ。山の神の嫉妬を買うからだという。山言葉は廃れ、掟も緩んだとはいえ、マタギたちにとって恵みは今も神からの授かりものである。だから、マタギたちは決して、熊を「撃ち取った」と言わない。「授かった」と表現する。
マタギは熊狩りを「ショウブする」と言う。熊を仕留めた時も「ショウブ、ショウブ、ショウブ」と叫んで仲間に合図する。「マタギは、人間と熊を同等の立場で見ているところがあると思います」と鈴木さんも話す。
マタギ独特の自然観は、授かった熊の扱いにも現れる。仰向けにして北枕で寝かせ、代々伝わるマタギ独特の唱え言葉を口にしながら、クマザサでその腹を祓う。「ケボカイ」の儀式だ。剥いだ皮を、頭と尻とを逆さにして熊の体にかぶせる地域もある。熊の肉はいただくが、その魂はケボカイを通じて山の神に送り返すのだ。
「マタギの里」は東日本各地にある。秋田県の阿仁地区を筆頭に、青森県西目屋村、山形県小国町、鶴岡市大鳥……。岩手県や新潟県、長野県などにもある。マタギ研究の第一人者、田口洋美・東北芸術工科大学教授によると、「阿仁がマタギ発祥の地」については学術的な真偽が定まっていない。ただ、各地の伝承を掘り起こすと、獲物を求めて出稼ぎ猟に来た阿仁マタギが、そのまま各地に住み着き、狩猟を教えたことは間違いないという。
阿仁地区には三つのマタギ集落がある。打当、比立内(ひたちない)、根子(ねっこ)。かつては集落ごとにマタギ集団が存在し、腕を競い合った。現在は「阿仁猟友会」として一つにまとまっている。人口減少とそれに伴う後継者不足が深刻になったためで、1980年代後半に阿仁で130人いたマタギは今35人。春の「巻き狩り」にギリギリの数だ。
熊を撃ち、肉や毛皮、熊の胆を売って生計を立てるー。そんなマタギは現在、姿を消してしまった。理由はいろいろある。以前は高値で取引された毛皮が、さっぱり売れなくなった。昔は珍重され高い値を付けた熊の胆も、薬事法で医薬品として指定され、資格のない一般人は販売できない。
いずれにしろ、今、狩猟では生活が成り立たない。だから現代のマタギは「本業」を持つ。鈴木さんも出稼ぎや森林組合の仕事で生活を守ってきた。今は県立自然公園の嘱託職員。会社や役所に勤めるマタギもいて、大人数を必要とする「巻き狩り」は日曜か休日でないと猟ができないという。
9代目の鈴木さんは、自分の代でマタギは途絶える、と言う。息子は既に阿仁を出て、都市部で家庭を築いた。猟銃免許も持っていない。
「なにしろマタギは仕事にならない。絶対に跡を継いでほしいとは言えません。山には何度も連れ歩きましたが、生活のためにはしっかりした仕事を選ばないと。残念だけど」
「マタギやれ」と言われた人が阿仁地区にいる。秋田県出身で写真家の船橋陽馬さん(33)。東京や名古屋、ロンドンで花の仕事に携わり、写真家に転じた。3年前、伝統芸能を撮影するため、阿仁地区の根子集落を訪れ、マタギたちに出会って人生が変わったという。マタギたちの撮影のため、秋田県内の拠点から何度も通い、やがて家族で移住してしまう。
移住後、船橋さん自身がマタギになった。阿仁地区の最年少マタギだ。
「おまえ、マタギやれって(頭領が)言ってくれたんですよ。昔の厳しかったころを知っている方が、部外者である僕に。すごいことだな、と。勝手に外からやってきて、マタギやりたいって言って、やれるようなものじゃないですから」
猟の写真は今、ほとんど撮れない。猟に出ると、マタギの務めを果たさなければならないからだ。熊を仕留める瞬間を撮りたくないのだろうか。
「僕はマタギをやっている。撮りたくても撮れないのを承知で、みんなと熊を追っている。普通の人には理解できないと思いますが、ショウブ(仕留める)の瞬間が大切なんじゃない。『熊が獲れて良かった』というのは、マタギの話じゃないですよ」
結局、マタギとは何だろう。この分野に詳しい田口教授は言う。
「マタギ文化とは、自然への配慮だと思います。普通の猟師たちと思考が違う」。例えば、道路の除雪。普通、作業後の道路では、高い雪の壁が両側に延々と続く。マタギ地域では、そうした除雪をしない。「もし、そこにウサギが落ちたら壁を上れない。だから、車が来るたびにウサギは(雪の壁に沿って道路側を)必死で逃げる。マタギは『どこかにウサギの逃げ道を作っておけ』と言います。動物をもてあそぶことを嫌うんです」
9代目マタギの鈴木さんはー。
「(害獣対策で)わなにかかった熊は、かわいそうだな、と思います。私たちが熊を仕留める、ショウブするって言うのは、一生懸命山を歩いて、そして熊とショウブする。熊も人間に撃たれないようにしているんです。私は害獣という言葉は嫌いなんです」
[制作協力]オルタスジャパン[写真]撮影:船橋陽馬、堀江博文